Wise people learn history  賢者は過去に学ぶ

日記・行事カレンダー

 

2012年10月26日

温暖化といえ、この頃やっと寒くなってきた。何かほっとするのも不思議だ。きょうは一日中、ブログやインターネットを検索。マックスウェーバーの「職業としての政治」を読み返した。静かな生活だ。よわい60歳も半ばになると、とかく無為に一日を過ごす。ゴルフなどの趣味があれば、体を動かせる。そんな趣味がない。散歩に精を出すしかあるまい。

 

2012年10月29日

 フットサル代表・三浦知良選手が27日、待望のゴールをウクライナ戦であげた。その記念すべき初ゴールは、豪快なスライディングシュートだった。
2 - 1と1点リードでむかえた前半14分、味方選手がうったシュートのこぼれ球を、三浦選手が体を張ったスライディングで押し込んだ。おなじみの「カズダンス」は見られなかったが、強豪相手に3 - 1で快勝した。

 借用した記事によれば、三浦選手は試合後、フットサルでは新人なので、「カズダンス」はしなかったと語った。45歳になっても選手として活躍し、真摯な態度には頭が下がる。三浦選手の登場で、フットサル人気が高まっている。彼のカリスマ性はたいしたものだ。

 「初めがあれば、必ず終わりがある」。三浦選手も例外ではない。ただ、「終わり」ができるだけ遅いことを願うのは、筆者一人ばかるではないだろう。
 

 

2012年10月30日

  風邪をひいた。のどがかすれて参った。昨日、医者に行って薬をもらってきたが、あまり効いていない。60歳も過ぎると体力が弱くなり、風邪の治りも遅いのか。これからインフルエンザの季節。みなさんも気を付けてください。

(写真はキャメロンハイランドのスモークハウス  マレーシア  筆者撮影)

 

 

2012年10月31日(水)

 直木賞作家の藤本義一氏が30日午後、肺がんで死去した。藤本さんは数年前からがんを患っていたが、容体が悪化。約1カ月前から西宮市内の病院に入院していた。30日朝に急変したという。

 筆者は、現実的な観察眼を持ちながら人情の機微にも富んでいた藤本氏に、長年、共感を抱いていた。彼の訃報に接し、「時」は容赦なく流れているのを感じる。人は生まれ死す。尊敬する先輩が亡くなると、ほんとうに実感する。

 

 もっとも印象に残っているのは読売テレビ系の深夜番組「11PM」。昭和40年から約25年間にわたって放送された。平成2年の最終回まで2520回、出演した。筆者は青春であった。高校、浪人、大学、英国留学、そして就職の浮き沈みの激しい人生に「11PM]を見た。

 「低俗番組と批判もされたけど、僕としては低俗のどこが悪いといった、開き直った気分でしたな」。「11PM」の司会を務めた藤本さんが話していたという。(産経新聞2012年10月31日ネット)

 藤本さんは軽妙なトークで視聴者の人気を集めた。表面上は「低俗番組」だったが、実質的には決してそうではなかった。藤本さんは冷徹な観察眼で当時の社会を風刺した。 1974(昭和49)年に「鬼の詩」で直木賞を受賞。産経新聞によれば、当時、選考委員だった水上勉氏からは「そろそろ本業の小説に専念しては」と忠告も受けたが、メディアとしてのテレビの可能性を信じて耳を貸さなかった。 「自分の目で見て感じたことを表現するという点では、タレント業も作家も同じ仕事」という信念だったという。

 

 1974年に「鬼の詩」で第71回直木賞を受賞。上方の若手漫才師や漫才作家の育成にあたる一方、平成7年の阪神大震災で親を亡くした遺児の心のケアにも取り組み、11年、兵庫県芦屋市にケア施設「浜風の家」をオープンし、理事長を務めた。 他の主な著作に「生きいそぎの記」「元禄流行作家-わが西鶴」「殺られ」「白い血が流れる」「はぐれ刑事」「贋芸人抄」など。

藤本氏は冷厳な観察眼と人情の機微をわきまえた数少ない日本人だったと思う。

 

 

2012年11月2日

 急に寒くなってきた。今日は文化の日。戦前でいえば明治節。明治天皇が生まれた日。10月は戦後でも一、二番目の暖かさだったという。温暖化と脱原発。矛盾した二つのことを解決するのは容易ではない。

 風邪が治らない。歳のせいかなあ? 歳を取りたくないものだ。考えてもみなかった。今から45年前の新宿西口のしょんべん横丁で、高校を卒業し、予備校に通い始めた筆者が夕食をとっていた。隣に50歳を超えた労務者風のおじさんがニコニコしながら、「お兄ちゃん、どこから来たかい」と尋ねた。「静岡県からです」。「そうかい。ビールでも飲むか」と言って、コップを店屋の兄ちゃんに持ってこさせた。「飲め」。19歳で初めて飲むビール。にがい!おっさんは「初めてか。にがいか」。大笑いしながら、ビール代を払って「頑張れよ」と言って去って行った。筆者はすでにおじさんの歳を超えた。おじさんもこの世にはいないだろうなあ・・・。

 

2012年11月10日(土)

 静かな朝だ。筆者の住む町は北関東の一角。どこまでも続く平野の中に住んでいる。散歩に事欠かない。しかし散歩する時間がない。時間をつくり出せばよいが、生来の怠け者でそうしない。継続雇用といえども退職した身。そろそろ健康を維持するために考えなくては・・・。

 昨日は会社で健康診断があった。血圧が140台に上がり、要注意。血圧だけは若年より70-110で推移していたのでショックだ。動脈がしだいに硬くなっているということか?

 退職者でもまだ仕事を続けている職員を社は健康診断の対象者とみなしている。インフルエンザも無料だ。注射針を自分の身体に刺すのはいやなものだ。幼児期から注射は嫌だった。初老を迎えても気持ちは同じだ。それにしても社に感謝する。ただ、受診率が低いと総務の連中がぼやいていた。筆者も同じだったが、若いときは健康にあまり目が向かない。歳を取って健康のありがたさがわかる。

 昨夕、最寄りの駅を降りて駐車場に向かう道すがら、「寒い」と感じた。晩秋なのだ。やっと寒くなってきた。地球温暖化が叫ばれて久しい。「寒いのは嫌だ」というより「何かホットした気持ちになる」のは不思議な心理の変化だ。人間がエゴに走らず、ほどほどの気持ち、中道の道を歩んで、子々孫々まで地球を護ってほしい。

  

2012年11月16日

 俳優の菅原文太さんがこのほど、俳優を引退すると宣言した。これからは同志とともに日本人の「心」の立て直しをするという。現在の政治家は「抗争に明け暮れている」と批判し、心の通った人間味ある社会を創ろうと呼びかけた。彼の叫びは切なく聞こえる。晩秋のわびしい心と同じ。寂寥感を抱く。(写真は菅原文太さんーCW編集室許可)

 

2012年11月21日

 午後6時から第21回山本七平賞の授賞式が東京の帝国ホテルで行われた。「昭和陸軍の軌跡」を書かれた名古屋大学名誉教授で、日本福祉大学教授の川田稔氏が正賞を受賞した。「日本思想史新論ープラグマティズムからナショナリズムへ」を執筆した中野剛志氏が七平賞奨励賞を獲得した。

 川田教授の「昭和陸軍の軌跡」は筆者は読んだ。1920ー30年代の日本史の知識がないと、面白くない本だが、知識があれば、非常にたのしい。選考理由に「人間はまさに『時代の子』である。本書は、大正末から昭和20年まで、陸軍の中枢にあって日本の進路を左右した代表的軍人たちの国策構想と、その国家戦略としての展開を迫った力作である」とある。

 選考委員の中西輝政氏が選考理由を話し、渡部昇一氏が乾杯の音頭をとった。ほかの選考委員は呉善花、加藤寛、養老孟司の各氏で、保守系学者の重鎮ばかり。感情的に「右翼」のレッテルが貼られる学者ばかりだ。彼らの何人かの著作を読み、うなずけない点も多々ある。もちろんうなずけない点もある。色眼鏡で見ないようにしなければならないと思う。

 故山本七平氏の著作は何冊か読んだ。彼は自書で、ものごとを観察し、それを分析している。このため生前、心情的な「リベラル」思想家やジャーナリストに、口汚くののしられたのを思い出す。朝日新聞の記者だった本多勝一氏は代表的な人だ。観察した分析結果は心情的な理念や考え方と一致するのはまれで、水と油の関係に等しい。さもあらんと思ったものだ。筆者は故山本氏をひじょうに評価している。

 川田教授に一度お会いしたことがある。心からお祝いを申し上げる。

(写真は受賞会場 筆者撮影) 

 

 

2012年11月28日

  昨日夜、高松に到着。今日、先祖代々の墓参りをした。2年ぶり。父をはじめ先祖は怒っていることだろう。ホテルからタクシーで往復。運転手さんが現在の政治に不満タラタラだった。筆者の前に乗せた乗客も同じ。閉塞感が日本国中を覆っているのだろうか。

  午前中に瀬戸大橋を渡って倉敷経由で旧友の住む鳥取県米子市へ。瀬戸大橋を渡るたびに日本技術陣の素晴らしさを思う。よくも瀬戸内海といえ、海に橋を架けたものだ。誰かが言っていたのを思い出す。「日本の技術は一流、政治は三流」。現在は政治は五流で経済は二流といったところか。もちろん技術は一流のままだ。日本人の救いかもしれない。

  倉敷はもう一度行きたかった。約40年前、学生時代に一度訪問した。今回は数時間の滞在だったが、美観地区の旅館「くらしき」で懐石料理を食べた。昼食は2000円もしなかった。夜なら目が飛び出るほど高いのだろう。倉敷の町はこじんまりした古い町。戦災をまぬがれたという。老後に住む場所としてはよいのではないかと思った。瀬戸内は気候温暖だ。

  午後3時すぎ、伯備線の特急「やくも」で米子に向かった。山間を走る電車は特急とは名ばかり。米子まで2時間かかったが、車窓から見る景色はのどかだった。各駅の周りにこじんまりとした集落があり、そこを過ぎれば農家が山縁に沿って点々と建っていた。

  伯耆大山に到着すれば、そこは日本海側。伯耆大山から数分で米子に到着した。友人が駅まで出迎えていた。約10年ぶりの再会。夜は駅前のホテル内の日本料理店でシロイカなどの海の幸をごちそうになった。日本海の魚はうまい!

(写真は倉敷市美観地区 筆者撮影)

 

2012年11月29日

 親友宅に一泊。午前中、米子市内の回転ずし屋へ連れて行かれた。地元で有名な寿司屋。名前は忘れた。お許しあれ。11時開店。開店10分前に着いた。客が数人、開店を待っていた。食べ終わって、出入り口に行くと、なんと数十人が順番待ちをしていた。ネタは新鮮で、ネタの大きさは特大。近くの境港から直送されてくるという。「つるだや」でまんじゅうを土産に買った。米子の老舗菓子屋だという。

 28日夜、久しぶりにご夫妻と娘さんと話が弾んだ。娘さんは、「国際まんが博覧会」で働いていた。開幕前、大手新聞社の取材に応じたが、記事はネガティブ記事。出展者が集まらないとか、応援ソングを募集したが応募は数点どまり、と記事に掲載され、挙句の果てに、言ってもいないことまで書かれたという。

 娘さんは抗議したが、「言論の自由だ」と開き直られた。「おかしいです」と怒っていた。同感だ。言ってもいないことを書いて「言論の自由」というのは、言論の自由のはき違え。記者はクビだ。デスクもデスクだが。

 親友は「日本では、メディアから発信された記事は正しいと、日本人は思い込む。正しいと信じてしまう」。その通りだ。娘さんは記者嫌いになり、記者に警戒の目を向けていると話した。取材した大手新聞社の記者がよい対応をしておけば、今後もネタを提供してくれるものを。商店が顧客を大切にするように、記者も取材者を大事にしてほしい。こんな記者はソファーで寝ていても、かつての取材者から「〇〇さん、こんな情報がありますよ」と電話を受けることはないだろう。

 午後12時過ぎ、親友ご夫妻に送られて車中の人となった。倉敷、岡山経由で大阪に到着。この地で、来年初めに古希を迎える先輩と一献傾けた。職業は建築家。不況でいい話は聞けなかった。

 新大阪近くの「大阪ガーデンパレス」で一泊した。一泊料金が朝食付きで6000円弱。駅に歓送迎バスが迎えにくる。ホテル案内によれば、駅からホテルまでバスで約3分。しかし筆者は先輩と別れ、新大阪駅から歩いて帰った。酔いを醒ますには手ごろな時間だった。

(写真は親友宅前の景色。米子市内だが、のどかな景色 筆者撮影)

 

 

 

2012年11月30日

 きょうの目的は、出版社の編集長に会うことだった。会見後、ロンドンに最近店を出したラーメン店「龍旗信」の大阪・難波店にいった。地下鉄「御堂筋線」の難波駅で下車。5番出口を上がって地上に出て、そのまま直進した。進行方向左側に南海電車の難波駅があり、そこを通り過ぎ、左に折れると高速道路が頭上を走っていた。高速道路をくぐってすぐに左に折れ約200メートル直進、左側に「龍旗信」が見えた。

 塩ラーメンしかやっていない。大阪のラーメンは薄味。薄味が好きな人は、うまいラーメンと思うだろう。店主は、東京から来た筆者を歓待して、「味はどうですか」と聞いた。食べ終わり、支払いを済ませて店を出ようとすると、外まで見送ってくれた。大阪商人の根性を感じた。

 地下鉄「御堂筋線」の新大阪駅改札口出口横に豚まんで有名な「皇蘭」の出店があった。ここの豚まんはうまいという。荷物になったが、買って帰った。エビしゅうまいも買った。「皇蘭」の本店は神戸南京町。

 帰宅後、食べたが、噂にたがわずうまかった。

(写真はラーメン店「龍旗信」 筆者撮影)

 

2012年12月2日

 レントゲン技師の従弟が趣味にしている切り絵。彼の招待で、第35回日本きりえ美術展に展示された、素晴らしい切り絵を鑑賞した。11月26日から12月2日まで上野の東京都美術館で開催された。出展数は聞かなかったが、200点以上はあったように思う。会員や非会員の作品。そのうちの数作品をこのサイトの「フォトギャラリー」で紹介する。興味のある方はのぞいてください。

 従弟と家族の方々と美術館で落ち合い、従弟は自分の作品を説明した。集中力が必要だという。根気も必要だろう。招待されるまで、切り絵展が毎年開催されていることを知らなかった。美術の秋。筆者は芸術と縁遠い。感性があまりない筆者にはどこがよいのか、理解できなかった。しかし、親族と会うことができ、美術の秋を満喫できた。

 上野公園を歩く老若男女の後ろ姿がどことなく寂しく感じられた。これも晩秋のせいだろうか。上野動物園に行く子どもの声だけが明るいように聞こえた。

(写真は日浅眞氏。作品は後方上の作品。フォトギャラリーにも保存 筆者撮影)

 

2012年12月9日

 ただいま午前1時20分。いま夜勤勤務から帰宅。冷えるね。でもほっとする。温暖化現象が叫ばれて久しい。現在、ドーハで先進国と開発途上国が二酸化炭素排出量制限で口論しているようだ。

 寒い。筆者の血管もきゅっと閉まる。どうも血圧が徐々に上がっている。最近血圧計を1万円はたいて買った(写真)。起床直後と寝る前に計っている。朝は上が135前後で下が80前後。寝る前に計ると、上が140代後半で下が90前後に上がる。まずい!動脈が次第に硬くなっているかもしれない。

 同僚が言うには、起床直後に水をコップ一杯、寝る前に一杯飲むと正確な血圧が分かるそうだ。いやだね。歳をとるということはこういうことか。

 そういえば、帰りの混んだ電車で、7~8歳の子どもに席を譲ったが、お母さんが申し訳なさそうにしていた。俺はおじいちゃんなのだ。おじさんともう呼べないようだ。がっかりした。

(筆者撮影)

 

2012年12月16日(日)

 言葉は難しい。隣の小学3年生が私の家の門前で、クリスマスのローソクやツリーを粘土や木々の葉を使ってつくっていた。1時間以上かかっつた力作。家内と一緒に褒めた。小3のお母さんが「門前を汚してすみません」と詫びた。私は即座に「たいしたことではありません」と返答した。「そんなことはありません」と言うべきだったが、後の祭りだった。筆者の返答は「肯定」したことになる。お母さんがどんな心理状態だったか分からない。発言に注意すべきだった。

 

 それはそうと、近くの小学校に行き、衆院選の投票を済ませた。投票後、共同通信社が出口調査をしていた。テレビのニュースでは、総選挙の投票率が、2009年の民主党圧勝時より下がっている。有権者がどの政党に投票するか決めかねた結果を投影しているのだろうか。この選挙は、今から50年間の日本を決める選挙になるかもしれない。

 各政党は相変わらず政策でなく他党への非難に終始した。野田首相は総選挙前半、政策を訴え、安倍自民党総裁を引っ張り出そうとした。しかし、藤村官房長官の「北朝鮮ミサイル即時発射」をめぐる失言問題で安倍総裁から民主党批判を受けたのを契機に、自民批判に転換した。各政党党首はスローガンばかり並べ立てる、不毛な選挙戦だった。そんな感想を抱く。

 

2012年12月20日(木)

 民主党の輿石東幹事長は19日の両院議員総会で、22日に予定していた党代表選を延期することを表明した。20日に引き続き行われた議員総会で、野田首相(民主党代表)が「『敗軍の将、兵を語らず』という言葉もあり、あまり私が多くを語ることは適切ではない。今回は大変、民主党にとって厳しい選挙結果となり、いぶし銀のような多くの仕事のできる皆さん、あるいは前途有望な同志の皆さん、数多くの議席を失ってしまった」と語り、同僚議員に陳謝した。

 「総選挙惨敗の総括が先だ」「惨敗の原因を究明してから代表選だ」と、開催延期の理由を並べ立てた議員から不満が続出したという。ほんとうに現実が分からない政治家だと思う。

 後でも先でもよいではないか。現在、民主党議員が一番先にしなければならないことは、国民に一致団結した姿が見せることではないのか。迅速に代表を選んで、代表のリーダーシップの下で皆が結束することではないのか。

 もちろん敗因を徹底的に分析することは不可欠だ。ただ、時間がかかる。半年ぐらいかかるのではないのか。それを一日で済ませようとしているとしか思えない。中学校や高等学校の生徒会ではないのだ。

 民主党議員は総選挙に惨敗してもまだ気づかない。この国には五万と職業が存在する。大多数の民主党議員は政治家としての素質がないのだから、一日も早く議員職から足を洗って、ほかの職業に衣替えをしたほうが、先々の人生によいのではないのか。助言したくなる。

 

 

2012年12月22日(土)

 昨日は冬至。きょうから一日一日、昼間の時間が長くなる。昨夜は、近所のご夫妻と家内と4人で近くのレストランで食事をした。医者のご主人から、食事療法だけでは体重は減らないとアドバイスを受けた。適度の運動が必要だ。運動をしていない者が、いきなり走ることも感心しないという。最初は速足の散歩。おっしゃっていることは、誰が聞いても納得できる。ただ、実行となると話は別だ。なかなか難しい。

 血圧が徐々に上がっている筆者にとっては、ためになる話だった。会社の帰りに新橋駅から東京駅まで銀座経由で1時間歩いている。かかりつけの医者の話では、一時間ほど歩かないと健康維持に効果はないという。現役の頃は医者と縁がなかったが、60歳を過ぎてから医者に通うようになった。歳をとったのだろう。

 

2012年12月24日(月)

 今晩はクリスマスイブ。米英など外国はあすは祝日。英国では明後日も祝日だと思う。世界各地でイエス・キリストの生誕記念日をお祝いする行事が行われる。われわれ日本人もクリスマスケーキを食べて特別参加する。

 昨夜、近所の家に招待された。ご主人が日立の海岸で釣ったスズキや牛肉が食卓に並び、舌鼓をうった。仕事の傍らタイ語を長年勉強し、相当の腕前。日常会話は困らないという。年に2回はタイを訪問し、観光客がいかない場所を得意のタイ語を駆使して旅する。タイ人の友達も多い。

 タイからいつもお土産にいただくのはせっけん(石鹸)。原料がタイのいろいろな草花を使い、肌にもよいという。確かに使ってみて化学材料を使用していないため、肌が若返るようだ。

 タイ・バンコクのパヤタイ病院で手に入る。4年前にタイを訪問した時、この病院を訪れたが、清潔な病院だった。

(写真 筆者撮影)

 

 

 

2012年12月27日(木)

 明日は御用納め。筆者もあす、ことし最後の仕事をする。今夕、退社して銀座経由で新橋から有楽町まで歩いた。昨夕に比べてやや暖かかったといえ、やはり寒い。思わずポケットに手を入れたくなる。人通りは普段に比べてやや少ないようだ。勤め帰りの人々が足早にJR有楽町駅に向かっていた。

 有楽町駅から山手線電車に乗って一駅。東京駅の駅舎をカメラに納めようと下車した。赤レンガの東京駅丸の内駅舎はことし、1914年(大正3年)に創建された姿にリニューアルされた。それを記念してかどうかは知らないが、コンピューターグラフィックス(CG)で彩る光の映像ショーが28日まで開かれる予定だった。しかし23日夜に想定の2万人を大幅に上回る見物客が殺到。車道にも人があふれたため途中で中止になり、主催者側の判断の結果、24日以降も中止になった。主催者団体は「予想をはるかに超える人出で、観客らの安全を確保できない恐れがあると判断した」としている。 このショーをカメラに撮ろうともくろんでいが、残念な結果になった。 

 (写真は赤レンガの東京駅丸の内駅舎 筆者撮影)

 

 

2012年12月28日

 今朝起きたら、米大リーグのニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した松井秀喜選手がテレビに映っていた。引退会見だった。日米通算507本塁打を放った松井秀喜選手は「(日米で)20年間に及んだプロ野球人生に区切りをつけたい」と話した。

 読売新聞のサイトを引用する。「日米合計約80人の報道陣が詰めかける中、会場に姿を現した松井選手は報道陣に向かって一礼すると、『応援してくださったファンの皆様、報道関係の皆様に感謝の気持ちを伝えたい』と切り出した。終始目を潤ませながらも、穏やかな表情ではっきりと語り続けた」

 読売巨人軍・長嶋茂雄終身名誉監督は「大好きな野球を続けたいという本心よりも、ファンの抱く松井像を優先した決断だったように思う。最後の2、3年は投手と対戦する前に、ひざの故障と戦う毎日で、本人もつらかっただろう。・・・個人的には、2人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている。これまでは、あえて称賛することを控えてきたつもりだが、ユニホームを脱いだ今は、『現代で最高のホームランバッターだった』という言葉を贈りたい」と話した。

 見事な引き際だったと思う。長嶋監督が言うように、まだ野球を続けたかっただろう。しかし自分に対するファンのイメージを傷つけたくなかったようだ。

 松井選手は人格者で名選手だった。また確固とした自分の人生観を持っていたようだ。王さんと同じだ。ヤンキース球団が、松井選手引退について異例のコメントを出したことが、松井選手の人格者の何よりの証明。しばらく体と精神を休めたら、新しい道に向かって再び前進してほしい。お疲れさま。

(写真は松井選手 wikimedia commons)

 

2013年1月2日

  皆様にとり今年も良い年になりますようにお祈りします。

 昨日の元旦は妻と2人で川崎市の新百合ヶ丘に行った。中学校2年から半世紀にわたって自分の子どものように慈愛をかけてくださっているご夫妻に会うためだ。1年に1度、元旦にお会いすることにしている。元旦以外にたまに会うこともある。お2人とも元気で、ご主人はことし90歳になるが、頭は鮮明。写真はプロの腕前で、写真をうまく撮るには①チャンス②センス③テクニークス - が欠かせないと説明された。

 「1人で写真撮影に出かけるのか」と質問したら、「愚問だ」と一蹴された。元気の塊だ。80歳半ばの奥様もダンス教室に通っている。筆者が歳をとっても、お2人のように元気でありたいと思った。「小父さん」が撮った写真3枚をいただいた。どれも素晴らしい写真。「3枚合わせえた値段は高いよ」と冗談を言われ、ニコニコ笑っておられた。

 そうだ。もう1枚いただいた。昨年から今年にかけて皇居の二重橋がライトアップされている。白鳥とともにライトアップされた二重橋の写真。新聞社も自社の写真を掲載したが、「白鳥入りの写真はなかった」という。本人は新聞社よりもよい写真を撮ったとご満悦だった。

 お二人は山口の出身。昔の長州藩だ。奥様の先祖は萩の毛利家の侍医だった。いつも萩の正月料理を食べさせていただく(写真)。ことしも萩料理に舌鼓をうった。吉田松陰も160年前、この料理を正月に食べたのだろうと想像すると、不思議な気持ちになる。

 幼なじみの娘さんと娘さんのご主人とも兄弟のような間柄。この日も来られて楽しいひと時だった。人間の出会いは真に不思議だ。だからこそ出会いは大切にしたいものだ。

 ご夫婦と娘さんご夫妻がことしもご健勝であるように心からお祈りします。

 

2013年1月13日

昨日は義母の1周忌。家内と横浜まで出かけた。坊さんが霊園まで来られて、お経をあげてくれた。その後、精進料理を食べ解散。義姉夫婦の自宅にお邪魔した。大手製造業に入社して2年目の甥が上司に不満を持っているらしい。「俺の指示通りにやれ。文句を言うな」。仕事の説明をしないらしい。どこの会社でもよくある風景だ。甥に「受け身で仕事をしないこと。会社を利用して自分の経歴を積み上げていくことが必要」と、ちょっとばかり先輩ぶった話をした。もう少しおとなしくしておけばよかった。わたしは話すぎるのが欠点のようだ。

 2013年1月14日

低気圧の影響で、列島各地で大雪となった。都心の交通機関に大きな乱れが出ている。当地も昼前から雪が降り始め、道路や歩道一面が雪化粧。今夜遅くまで雪が断続的に降るかもしれない。

  窓から外をのぞくと、粉雪が舞っている。こんな時はじっとしているにかぎる。自宅の玄関から一枚シャッターをきった。

 

2013年1月20日

  昨日、家族でお付き合いしている友人宅に家内と一緒に招かれた。ご主人、奥様、娘さん2人からの歓待を受け、楽しいひと時を過ごした。上の娘さんはアパレル関係の会社の外資系部門に勤務している。資本は日本の企業だと確か聞いた。下の娘さんは大学で経済学を勉強している。経済学が自分に適した学問かどうか悩んでいるという。二人の若者は、自らの頭で思考して未来を切り開いている。主体的に生きている。

 上の娘さんは英国の本社に電話対応するため、夕方から仕事が忙しくなるという。俗にいう帰国子女で、英国人と日本人に対する対応の仕方が違うそうだ。日本人に対応する場合は、相手の考えや主張を一度引き取って、「お考えを吟味してあとから電話します」と一度電話を切るそうだ。英国人との対応は、その場で自分の考えを述べ、話し合うという。両国民の性格を理解している。

 日本は調和の文化だ。相手に合わせる文化。だから議論をする習慣がない。幼少時から議論する土壌で育っていない。一方が議論を吹っ掛けると、他方は不満を言っていると映る。「つべこべ言わず、俺の指示に従ってやれ」。わたしも現役時、幾人かの上司からそう言われた。

 これからの若者は議論する能力が必要だと思う。年配者は若者からの議論や疑問、なぜという質問を不満と受け取らず、質問、疑問点と受けとってほしい。

 若者と時々する話は新鮮で時代の流れを感じ、自分の考えを見直す場になる。それは歴史の変化、時の変化を感じる時でもある。

2013年2月1日

 きょうから2月。時計の秒針は青年の頃と変わらない速さでカチカチと時を刻む。しかし歳を取るにつれて一年が経つのが早い。心理的なことなのだろう。半年点検で近くのトヨタに車を持ち込んだ。約1時間で点検が終わった。整備士が「タイヤを4本そろそろ取り替えたほうがようと思います」と助言した。筆者は「ガソリンスタンドでオートマオイルが少なくなっていると言われた」と報告。整備士は「そうそう。オートマオイルを入れている器具も取り替えたほうがいいですね」と言って、何年乗っているかと尋ねた。「今年の4月でまる19年」。このトヨタサービスステーションでは、筆者ともう一人の顧客が15年以上乗っている、と言われた。

 

 「そろそろ新車に代えたらどうですか。エコカーのプリウスは良い車です」。整備士が「エコーカー」と口から言葉が出たとたん、中国・北京の大気汚染を思い出した。燃費の良い車に買い替えて、日本の自然環境に貢献する手もある。ただ、退職者にとってプリウスは高い。先立つものは金だ。

 1月30日、英国の友人2人からそれぞれメールが届いた。一人は日本人形が届いたという知らせだ。彼に最近、16-17世紀の英国史について質問した。この講義は2カ月にも及び、お礼に贈った品物。もう一人は、彼の奥さんが家内にブラウニーのチョコレートケーキのレシピを1年前に送ってくれた。やっとつくって写真を送った。1月は内科と歯科に行くなど雑用がいろいろあって、不祥事をやらかした。これも歳のせいかもしれない。心して間違えないようにしなければと肝に銘じた。

2013年2月2日

 ポーランドの友人から首都ワルシャワのプリントが贈られてきた。筆者は学生時代に旅行でポーランドを訪れた。ただしワルシャワの駅頭に立っただけだ。大学3年の夏、横浜からソ連(現在のロシア)のナホトカに到着。電車と飛行機を乗り継いでモスクワに着いた。モスクワからドイツのベルリンに28時間かけて列車で行く途中、ワルシャワ駅に停車中の列車から降り、ポーランドの大地に数分間とどまった。

 友人と東京で初めて会ったのは1989年。ポーランドは1990年ぐらいまで、共産主義国家。なかなか外交官と接触できなかった。ビロード革命のさなかに初めてあった。彼は外交官だった。彼はワルシャワ大学の日本語科卒業。日本語がうまかった。

 それから付き合いが始まり、今日にいたっている。彼は数年前にポーランド外務省を退職。ワルシャワ郊外で暮らしている。気さくで誠実な人だ。メールを時々やりとりし、いつの日かに再会したいと互いに願っている。

2013年2月12日

 出社しない日は、鋭意散歩を心掛けている。自宅の周囲は、畑と野原。散歩するには最適の場所だ。気持ちよく散歩できるが、空っ風が吹くのが玉に傷だ。今晩は冷える。明朝は雪が降る、とテレビのニュースが報じている。ニュースと言えば、北朝鮮が再び、核実験を実施した。小型化に成功したそうだ。「張子の虎」(毛沢東がかつて言った)を使って、米国と交渉するそうだ。この兵器で米国を脅して北朝鮮の”認知”を求めても、無駄なのは子供でも分かるのに。中国といい、北朝鮮といい、隣に変な国がいる。自宅の隣の家に変な人が住んでいるようなものだ。参った。なんとかできなのかね。

2013年5月20日(月)

 母を老人ホームに入れて1カ月半がたった。高齢者がホームに入ると、痴ほう症を発症したり、痴ほう症が進んだりすると聞く。今のところ、母にはその兆候はないのでほっとしている。頻繁に帰省し、母を自宅に連れて帰っているが、こちらも若くないので疲れる。友人は「最後の親孝行だね」と言って、筆者を励ます。やれるところまでやるしかないだろう。

 妹が倒れ、亡くなり、そして母をホームに入れた3カ月。筆者はまともに世間の動きを把握していない。新聞を読まないし、テレビも見ない。長嶋と松井の国民栄誉賞受賞はしばらくして知った。今回の橋下大阪市長の暴言は偶然タイムラグなしで知った。日本の政治家のお粗末な一席だった。

 橋下氏はお粗末だったが、みんなの党の渡辺氏も定見がない政治家だと自ら暴露してしまった。今回の暴言で、みんなの党は維新との参議院選挙協力を破談にする。維新の人気にあやかって維新に近づき、人気急落で破談にする。みんなの党の連中の政治意識も推して知るべしだ。わたしも、みんなの党が旗揚げした頃、期待した。だからこんな批判をする資格はないのだが、つい見識も人徳も、何もかもなく、ただただ選挙に”合格”したいだけの政治家に愚痴を言いたくなる。

2013年5月31日

 きょうは5月最後の日。あすから6月。関東以西は梅雨入りし、蒸す日が数日続いている。母の白内障の手術は成功。右目が見えるようになった。母の表情が豊かになり、口数も多くなった。病院から老人ホームに帰る途中、車いすを押していた筆者に、母が車を停めてと言った。そしてアジサイの花を十数年ぶりに見て、「きれいね」と感嘆の声を上げた。

 筆者が想像する以上に感激したのだろう。筆者は視覚の大切さを理解できた。視覚から相手の表情を理解して、笑顔になったり、悲しんだりする。当然のことだが、母は実感したにちがいない。

 今年の11月で92歳になる。妹の分も長生きしてほしいと願う。筆者も母よりは長生きしなければと思い、今日、毎年受けている健康診断を渋谷で再び受けた。診断後、医師が筆者の診断結果について説明した。「問題ない」。安心した。

 医師の説明の中で、ひとつ気になる説明があった。ピロリ菌を、生まれた時から持っていない人は胃がんにかかる率が1%以下だという。ピロリ菌を持っていたが、除菌した人の胃がん発生率はかなり低下する。保菌者の胃がん発生率は過半数を超える。胃がん患者の多くはピロリ菌保有者だという。

 5歳以下でピロリ菌にり患するという。親や祖父母ら近親者の中にピロリ菌保菌者がいると経口伝染する場合が多い。医師は「ピロリ菌保有者」「ピロリ菌除菌者」の胃カメラ検査を勧めていた。毎年検査をすべきだと説いていた。

 

 健康診断受診の大切さは言うまでもない。胃カメラ検診をめぐる医師の発言に対して「うがった見方」もあるだろう。この医師の助言を素直に受け入れるかどうかは読者次第だ。ただ筆者はピロリ菌保有者と除菌者が胃がんに注意して胃カメラ検査を受けるべきだと思う。ついでながら、筆者は生まれた時からピロリ菌保菌者でないことが分かった。ラッキーだった。

(イラスト無料)

 

 

2013年6月9日

  一昨日、病院に母を連れて行くため浜松の老人ホームを訪れた。白内障の手術をして1週間。手術後初めての診察だった。ホームに隣接する病院へ行き、医師の診察を受けた。「順調です。老人なので若い人ほど視力が回復しないのはしかたありません」。医師は筆者に告げた。強い近視だったことも影響しているという。裸眼で0.2まで回復。眼鏡をかければ0.7.これから2カ月で視力は安定するという。診察後、母を誘って浜松の中心街に出た。車いすに乗っている母は久しぶりの市街を見てうれしそうだった。「町の中が変わったわね」。区画整理された駅前を見てそういった。母にとって、眼前の景色は新鮮に映ったのだろう。筆者も目が人間にとり非常に大切な器官だと実感した。目が見える人々にとっては、目が見えるありがたさは実感できない。筆者もそうだった。母のうれしそうな表情を見て、目の大切さを実感した。母は91歳。最晩年に再び光が戻ってきた。「早く手術すればよかったわ」と会うたびごとにいう。十年以上も手術を勧めたかいがあった。親孝行をした。これからもわたしの友人の言葉「最後の孝養をつけせよ」をしっかり胸に刻んでしばしば母に会いに行こうと思う。

(写真は浜松駅前 公有)

2013年6月19日

旧交

 

一昨日から昨日にかけて伊豆半島に仲間と一緒に旅行した。旅行といっても社の寮での飲み会。ほとんどがOBで、筆者の先輩ばかり。先輩と話をしていると昔のことが思い出され、落ち着くから不思議だ。寮から眼下に見える海。新島も遠くに見え展望は抜群だ。一年中で一番日没が遅い6月。夜のとばりが町をつつみ、点々とついている灯がきれいだった。前回の会合は、筆者が日にちを間違え、すっぽかして迷惑をかけた。そんな筆者の過誤も心にしまって、笑って迎えてくれた、心の大きな諸先輩に感謝している。人間は過去を懐かしむ動物のようだ。

2013年7月6日

宇都宮・高崎会で1年ぶりに再会

 毎年一度、5-7月に会社のOBや現役の仲間が大宮近辺で会う。10年ほど続いている会。偶然かどうか知らないが、関東甲信越が梅雨明け。統計史上4番目の早さ。また熱中症で100人以上が搬送され、厳しい夏の始まりを告げた。

 会は半数が欠席。6人が出席した。皆50歳半ばから70歳半ばまでの年齢。欠席者の中には、病気や老齢で足腰などがままならずに欠席した人もいる。時の流れをしみじみ感じた。しかし久しぶりに話が弾んだ。鰻を食べながら近況報告。会社の話も出た。気心が知れた連中が集まると、心も和む。来年の再会を約束して別れた。皆が元気でいることが一番だ。

 

 

 

2013年7月17日

雑司ヶ谷

 

 このところの暑さによる熱中症のため、二けた単位で亡くなっているという。その大半は老人。きょうはしのぎ易い天気だったが、あすからは再び猛暑になるとか。わたしも老人の仲間入りの証拠として介護保険が市から送られてきた。間もなく65歳。まだピンとこないが、老人の仲間入りをしたことになるのだろうか。

 このところ老人にしては忙しい。数日前も母のいる浜松に行ってきた。91歳の母は食欲もあり、元気だ。老人ホームの生活にも慣れて、ヘルパーの方々にお世話になっている。ヘルパーの方々にこの場をかりて感謝したい。

 

 一週間前には雑司ヶ谷を訪れた。暑いのにご苦労な話だが、雑司ヶ谷霊園の写真を撮り、地元の文化施設に行って、この地域の文化活動について話を聞いた。こうして人々と話すのはボケ防止には一番の薬。

 これからも日々、何かを見つけて積極的に動き回ることにした。

写真は雑司ヶ谷霊園

2013年10月2日

今夏は猛暑

 7月17日に書き込んだのを最後にきょうまで稼働停止になった。このため、自動的にウェブノードのブログが休止し、これを再稼働させるのに苦労した。いろいろとやっているうちに稼働した。なぜ稼働したかは分からない。まあ、いいか。

 今年の夏は猛烈に暑かった。その暑さもかなり和らいだが、それでも10月初旬にしては、蒸し暑さを感じる。地球温暖化ははっきりしてきた。人間という動物は既得権を手放したがらない。それは今も昔も同じだ。共産党や社会民主党の連中は、原発即時廃止、子ども手当の拡充、消費税反対といっているが、衆参両院の定数削減となると反対する。かれらも、満州の既得権を必死に守ろうとした関東軍と大差はない。

 母に毎月会いに行くが、元気だ。間もなく92歳になるとは考えられないぐらい元気。食欲旺盛。わたしとほぼ同じぐらい食べる。100歳まで生きるかもしれない。妹が亡くなった現在、わたしが母より長生きしなければならないが、こんな元気な姿を目の当たりにすると、自信がなくなってくる。

 

 

 

2013年10月6日(日)

旧友

 昨夜は大学時代の友人3人と1年ぶりであった。もう一人の友人は所用で欠席。1年に一度、会うことが定例になった会だ。岐阜

県恵那から毎年、旧友に会うことを楽しみに上京するM氏が音頭を取ってこの会を初めてどれぐらいたっただろうか。5年は過ぎたように

思う。

 Mは司法書士で、息子さんも数年前に司法書士試験に合格、事務所で見習いをしてから、昨年Mの事務所で働き始めたという。Mは言う。「何かにつけて頼りなく、人生に取り組む姿勢も甘いと思っていた息子と一緒に仕事を始めてみると、一生懸命やっている。驚き、なかなかやると思った。自分の息子を他人の前で褒めるのは気がひけるが、よくやっている。俺も数年後に引退して、老後をどうするか思案している。いままであまりにも忙しく、自分のために時間を使うことがなかった。手始めに1カ月ぐらい独りで海外旅行をする計画を立てている。学生時代、休学して半年ヒッチハイクで欧州、北アフリカ、インド、東南アジアを巡ったが、60歳すぎてヒッチハイクとはいかんだろう」。Mは笑っていた。

 もう1人のOは51歳で大手企業を早期退職。東京都心でマンション経営をしている。生涯独身で、企業に勤めているときに貯めた資金を利用してマンション経営に乗り出し成功、初老生活を満喫しているようだ。「一日の日課はフィットネスクラブや図書館に通うこと。夜は自炊してテレビを見て寝る。好きな本を読めて幸せだ」と話していた。

 話がどうしても老後のことになり、葬式についても話題になった。関東圏では骨壺に亡くなった方の骨を全部入れるが、関西では一部を入れて、残りは火葬場が処分するという。Oがこんな話をすると、Mは「そうだ」と返答した。岐阜県は関西圏に入るそうだ。

 Mが「おいO、独りだろう。そんなに金を貯めてどうするのか」と聞いた。Oは「妹や甥に墓に入れてもらおうとお願いしようとも思わないし、どうするかなあ」と思案顔。するともう一人の同席者のSが「慈善団体や非営利団体に寄付でもしたらどうだ」と助言していた。Mは「金はあるところにはあるがないところにはない。Oのように金が貯めることが可能なよい時代に俺たちは生まれたわけだ」と皆を見まわしながら、真剣な眼差しで語っていた。

 筆者は合図を打ち「そうだなあ。俺たち団塊の世代は、親父たちの世代のように戦場に行かなかった。子どもの世代のように就職難や派遣社員を強いられて生活に困ることもなかった。経済は右肩上がり。まともに働こうとおもえば、大多数は報われた時代だった。その上、政治運動に頭を突っ込んで安保闘争や毛沢東に熱を上げる余裕もあった。子供や孫は親父たちと同じような境遇だなあ。もちろん境遇や環境はまったく違うが・・・」と強調した。

 参加者全員があまり長生きしすぎて世間や子どもに迷惑をかけないことで意見が一致した。「80歳ぐらいまで生きれば十分だ」。さて残りの15-20年の人生をどうするか。「いままでやりたくても家族のため、会社のためにやれなかったこと。いままで自分の思想や考え、人生観などを言いたくても会社の同僚に遠慮して言えなかったこと。そんなことを人生の最後にやり遂げてこの世をおさらばするか」。この点で意見が集約されて別れた。「また来年の第1土曜日に新宿で会おう。それまで元気で」とMはニコニコ笑いながら、今晩1泊するJR新宿駅近くのホテルのほうへ消えていった。

 ちなみに孫もいるSは司法書士事務所に長年勤めながら、今も司法書士試験に挑戦している。司法試験に挑戦していたが、司法試験改革で回数制限が決められ、司法書士試験挑戦に舵をきったという。かなりの実務経験があるが「試験と実務は違う。まあ、金にも困らないし、今や趣味とかしたなあ」と話し、「合格して数年でもやれればよいと思っている」と挑戦への意欲は衰えないようだ。

 今回の会に欠席したHは弁護士。彼は昨年の会で「司法改革は失敗した。過疎地にも弁護士も、と法務省は考えて改革を実施したが、過疎地に弁護士が扱うような訴訟など起こるはずがない。それに日本人は争いごとを避けたがる国民性だ。米国人のようになんでも訴訟に持ち込む国民性ではない。いまや弁護士供給過剰時代だ。食えない弁護士は40年前に比べてたいへん多いし、合格者を40年前の500人から2000人にして弁護士の資質も低下した。この改革でなにもよいことはなかった」と切り捨てていた。

 歴史の原則でいえば、英国のバターフィールド教授が半世紀前に言ったように、歴史は人間の当初のもくろみを捻じ曲げる性質があるということに当てはまる。なにごとも人生は思ったようにはいかない。

 

2013年10月8日

蒸気機関車

 きょうは蒸し暑い。10月のカレンダーをめくってもこの蒸し暑さ。そのうち「天高く馬肥ゆる秋」とはいかなくなるかもしれない。今日のような暑さを経験すると、地球は100年ももたないのではないかと思う。木星や土星のように二酸化炭素やそのほかの有毒ガスに覆われて、人類が死滅。映画「猿の惑星」のような事態になるのだろうか。いま太陽系を離脱しつつあるボイジャーは、人類の遺言をほかの惑星の届ける旅をしているのかもしれない。人類ほど馬鹿げた動物はいない。自分で自分の首を絞めているのだから。俺もあと15-20年で地球とおさらばする。あま、いいか、と自暴自棄になるのはわたしだけだろうか。

 蒸気機関車の写真は9月7-8日、熊本・人吉市の高木惣吉海軍少将の遺品を展示している高木惣吉記念館に取材したおり、人吉から熊本まで乗った車両をけん引した蒸気機関車。球磨川(くまがわ)に沿って走る蒸気機関車からでる煙は、わたしを遠い昔に帰した。

2013年10月14日  Oct. 14    2013

休日

 3連休の最後の日。勢力の強い台風が関東に接近している。しかし、北関東は快晴で、気温もまあまあ。久しぶりに散歩した。散歩の途中で撮った一枚の写真を掲載する。田園風景が広がる自宅近くの景色だ。1時間も歩くと疲れる。努めて散歩しようとこんな時思う。ただ、その思いも翌日には忘れてしまう。いけない。朝日新聞によれば、70歳以上の男女の体力が年々向上している。こんな調子では彼らに追いつくことは至難の業。これから意識して運動をしようと思う。

 The last day of successive three-day holiday in Japan. It was fine today in the North Kanto region, north of Tokyo. I took a walk after a long interval. I have taken a photo showing a countryside near my home.

 

2013年10月19日

秋らしくなってきた

 

やっと秋らしくなり、朝夕はかなり涼しくなった。40年前よりカレンダーが20日ぐらい遅れているのかもしれない。散歩するにはよい気候。今日は1時間弱散歩した。都会と違って田んぼあり、畑ありの田園風景が広がる。歯医者にもいった。3カ月に1回、歯を掃除しに来いという。当初は歯医者の金儲けだと思ったが、そうではないらしい。歯痛にあるよりはましかと思い続けている。

 台風による伊豆大島の被害は想像以上に大きい。人間がどこに住むかで寿命も左右されるのかとも思う。当たっているかどうかは別だが・・・。この災害を目の当たりにして火山灰の上に暮らすのは大きな危険が伴うとつくづく思う。犠牲者がお年寄りや中年者ばかりなのは心が痛む。いまだ行方不明者も多い。一刻も早く安否がわかってほしい。

 母から電話があった。来週は再び浜松へ行く。元気な姿を見ることができる。1カ月に1度の浜松行き。私の体も慣れてきた。旅費を節約するために、JR東日本の「ジパング」の会員になった。会員資格は満65歳以上の人。乗車距離201キロ以上で正規運賃の2-3割引きになる。毎月浜松に足を運ぶ筆者にはありがたい。

 毎年、歳を重ねる。暗い気持ちにもなるが、悪いことばかりではなさそうだ。

2013年11月14日

急に寒くなってきた

 1カ月書かなかったが、季節は秋を通り越して初冬を迎えた。間もなく日本に四季を感じなくなる天候を迎えるのかもしれない。温暖化は人間が思う以上に深刻なのかもしれない。浜松に相変わらず行っている。今月9日には、浜松のフランスレストランで、母の誕生日を開いた。開いたと言っても参加者はわたし一人。この席で、見知らぬ親子から一輪の花を母はいただいた。最初、驚いたが、「親子の温かさを感じました」とおっしゃられ、たいへん恐縮した。多分レストランに母の車いす押して入ってくるのを見ていたのだろう。それにしてもこの世知辛い世の中に温かな心の持ち主もいるのだと思った。わが日本人の美徳とでもいうものだろう。

 10月下旬から昨日の13日までは忙しかった。拙書発刊をめぐって最後のキャッチボールを大阪の出版社とした。まもなく拙書は世に出される。なにか子どもが生まれるような気持になる。

2013年11月26日

母と過ごす

 11月20日から昨日まで浜松に滞在し、母と家内と自宅で過ごした。ひと月ぶりに浜松に行った。自宅の居間に入ると、色づいたカエデの葉が目に飛び込んできた。きれいだ、と思わず思った。自宅の小さな庭にも短い秋が来たのだ。温暖化のせいで「短い秋」と表現したほうがよい。そのうち日本に秋がなくなるかもしれない。紅葉も拝めなくなるのだろうか。四季は日本の季節の特徴。寂しい。人間はひとつひとつ貴重なものをなくしていく。

  母と過ごす4-5日は朝から晩まで庭の手入れや床掃除。朝ごはんは私の担当。一言でいえば肉体労働をしている。かみさんのありがたさを実感するのは浜松での生活。栃木では何もしない筆者だが、浜松では母親孝行をしているのだろう。11月9日で母は92歳になった。ボケることもなく食欲旺盛で、にこやかな毎日を送っている。

 浜松滞在中、 NHKスペシャルで元NHKディレクターの相田氏の3000日の奮闘記を見た。ボケたお母さんの世話をした日々の記録。たいへんだとしかいいようがない。それでも明るく冗談交じりの会話もしていた。

 母には感謝。ボケないのは息子孝行だ。しかし、老人はボケて食欲がなくなって死んでいくのだとこの番組から学んだ。

2014年1月5日 Jan. 5  2014

新年

  新しい年を迎えました。明日は仕事始め。いよいよ世の中が始動します。新しい気持ちで仕事や勉学に頑張ろうと張り切っている人々も多いと思います。

  

 A new year has come. Tomorrow, we begin to work and learn in educational insitutions in Japan. I think they encourage themselves to walk ahead to the future with their looking back to the past.

  Horus Publishing Firm published my book, A Country Without Past, last Nomember. The country is Japan. I argue the way of thinking of the Japanese from my point of view.I argue how the Japanese have grasped the past. This book has not lashed out the Japanese but has encourged them to make use of the past for the future. 

2014年1月10日

新年会

 今晩、社のデジタル局の新年会があった。現役諸氏もたくさんいたが、OBもかなりいた。退職しても雇用される。ありがたい会社だ。筆者も65歳。定年退職して5年間働いた。まだ働いている。めぐまれている。文句を言えば罰が当たる。ただ気力がどこまでついてくるかが問題。月に10日間働いて、残りの20日間を有意義に過ごす。ことしは運動をして体重を70キロ未満に落とさなければならない。6キロをどうやせるか。元気に働き、好きな道にも精を出したい。

 

2014年1月14日

冬本番

 今晩は冷える。明日は東京に雪が降るという。ただ積もるほどの降雪量ではないらしい。仕事帰りに新橋から東京まで歩いた。約40分かかった。手袋をはめ、速足で歩いた。運動不足を解消するとはいえ、僧侶の修行みたいだ。

 細川元首相と小泉元首相がタッグを組んで東京都都知事選を戦う。細川氏の出馬を小泉氏が応援する構図。選挙で訴える公約は脱原発。選挙期間中街宣車の上から二人が演説する光景が見られるだろう。有権者は細川氏を選ぶだろう。予想は細川の勝ち。

 きょう午後7時半から放送された「クローズアップ現代」で、司会者の国谷裕子さんが、「絆」「おもてなし」という感性的な言葉が現在、日本人の心を捉え始めている、と話していた。決して悪い言葉ではないが、この言葉に酔うとろくなことはないと思う。

(冬の松江=Winter in the city of Matsue in western Japan facing the Sea of Japan)

 

 

2014年1月17日

駐車場

 

 再び週末を迎える。毎日が早く感じる。歳のせいかもしれない。

 駅前に駐車場を借りている。今朝、隣の車がわたしの駐車区域に少しばかり入り込んで駐車していた。このため駐車に苦労した。トラブルを起こしたのは左隣。右隣の駐車領域に入らないようにし駐車。ことなきを得た。

 この頃思うことがある。日本人のモラル低下だ。往来する人々にしても、多くの人がよけずにこちらに突き進んでくる。こんなケースが多い。昔はお互いによけようとして、「すみません」とお互いにいったものだ。

 昨日、電車の中で手袋を落とした。気づかずに降りようとしたら、後ろから肩をたたかれ、指で床を指した。気づかせてくれたのは感謝するが、一言「落ちましたよ」と言えないのか。昔ならほとんどの人はそのような言葉を発した。わたしは「ありがとう」と言ったが、返事はなかった。

 電車の中で通路寄りに座っていると、黙って足をまたいで奥に座る乗客が多い。それから黙って通路に立って、早くよけてくれよという雰囲気をこちらに発する。驚くことがある。一言「すみません。奥に入ります」と言えないのか。

 深夜の電車に乗ることはなくなったが、よく喧嘩をしている乗客に巡りあった。車掌に怒鳴る乗客。原因を聞いていると車掌の態度が悪いと言っていた。統計を見ても、電車内のトラブルはこの数年で多くなっている。 なんと言おうか。どうも自分の非を認めがらない輩が多くなったということか。

 過保護の子どもが騒がれたのは20年前ぐらから。大学受験に親が付き添っていく。はては大学の卒業式や入社試験にまで同行する親がいる。価値観が変わってきたのだ、と説明されれば、納得できるが、それでも割り切れないものがある。

 我慢できない人間が多くなってきたということか。幼稚になってきたということか。この傾向は続くのだろう。まあ、いいか。わたしもこの世とあと長くて20年もすればおさらばだ。ただ、この20年間に、さらにモラル低下と我慢できない幼稚な大人を見たくはないが・・・。

2014年1月22日(木)

国民健康保険料と納税の季節

 

 きょうは家内と一緒に近くの銀行に行き、国民健康保険料を支払った。この金額がバカにならないほど高い。十万単位。間もなく所得税の納税時期が来る。年金を国からいただくが、これも税が生じる。まだ月約10日出社しているので、少しばかりの金が入ってくる。これも税の対象。歳をとっても国から税を取られる。30代ー40代の派遣社員が60歳代になったとき、どうするのか?想像もつかない。前途は厳しい。

 本音をいえば、現役の時にはかなりの所得税を取られたのだから、そろそろ勘弁していほしいと思う。そうもいくまいから、政治家や官僚は心して国民の血税を使ってもらいたいものだ。新規の公共事業など無駄なところに使ってもらいたくはない。ましてや官僚の無駄使いはやめてほしい。まずは国会議員の定数削減、歳費の削減から始めてほしいものだ。

2014年1月25日(Jan. 25, 2014)

メール(Mail)

  昨日、タイのスントラワニ先生からメールが届いた。拙書の出版のお祝いだった。先生には取材でたいへんお世話になった。多謝。今晩は、神戸の劇団の演劇制作者と一杯飲んだ。彼が19歳の時からの親友。兵庫県の井戸知事は文化事業に理解がある、と話していた。そういえば、昨年、神戸に私用で行ったおり、海洋博物館や美術館などの文化施設があることに気が付いた。親友はいう。「橋下大阪市長は文化に理解がない。すべて採算ベースでかんがえている」。文化を金儲けの手段などと考えたり、自助努力の採算ベースで考えることがナンセンス。欧州文化の伝統も、貴族がパトロンとなって、ベートーベンやモーツアルトを生み出した。ゴヤやエル・グレコも貴族の庇護を得ていたと思う。文化は人間の心を潤す。政治とは性格がまったく違う。そこを理解してほしい。政治や軍事は現実であり、音楽や絵画は心の問題だと思う。

 I met my intimate friend in central Tokyo  tonight.He has been a senior director of the Kobe-based drama theatre. The city of Kobe in Hyogo Prefeture is located about 500 kilometers west of Tokyo. Hyogo Prefectural governor Ido is a backer of culture. He has understood the necesity of culture. My close friend told me that Osaka Mayor Hashimoto has thought drama theatres and painting museums should make commercial profits ,otherwise they are not worthy at all. I think Hashimoto's remarks are wrong. Culture is not a profit-making device but mental-ease and a peace of mind creater .

2014年2月1日(土)

 きょう横浜に行った。横浜の冷凍食品会社の社長にお会いした。会社立ち上げからの苦労話を聞いた。本人は苦労とはまったく思わなかったという。「この仕事が好きで30-40歳代は一日3-4時間しか眠らなかった」と話した。好きな仕事に没頭すれば、ストレスは感じなかった、と話し、過労死は好きでもない仕事でストレスがたまるからだ、と持論を展開していた。一代で財を成した人の話を聞くと、その人の波乱万丈の人生が見えてくる。彼も例外ではなかった。浮き沈みの中から、世間の変化を読み取る冷静な観察眼が成功の秘訣のようだ。 

 仕事に生きがいを見出し、事業の拡大に人生の喜びを見出しているようだった。1カ月300-400万円の月給を得ているという。一生懸命働き、会社のために利益を出す社員には、30歳代半ばでも年収1000万円を出しているという。彼は社員の学歴は問題にしないと協調していた。社長は中学校卒業してから働いてきた。会社の業績は年間何百億。筆者のような月給取りには実感のわかない金銭だ。こんな成功者は多分一握りの人だろう。

 夜は義理の姉夫婦と一杯飲んだ。横浜市金沢区にあるこの店は3月15日に店を閉めるという。料理人のご主人の体がよくないのが、店を閉める理由だ。閉店を知らせられた客で連日満員だという。遠く長野からもやってくる客もいるそうだ。店のご夫婦も身を粉にして働いた半世紀だった。働けば報われた時代を生きてきた。このごろはまじめに働いても晩年の生活がどうなるか分からない若者も多い。特に契約社員はそう思うだろう。

 若い人々に働けば報われる社会が再び訪れることを祈るばかりだ。

2014年2月9日(日) Feb. 9    2014

 

   昨日から今日にかけて日本は大雪に見舞われた。久しぶりのどか雪。朝、自宅周囲の雪かきをする以外は、寒くて今日は猫のように自宅でじっとしていた。春の足音はまだ遠い。 (写真は自宅近くの公園)

 

   We had heavy snow today. Heavy snow fell for about 24 hours in my area in northern Kanto, northwest of Tokyo. House and parks were covered with snow.

 Householders carried away snow to enable people to walk in lanes and roads. The snow was about 20 centimetrs deep. the depth of snow of such was for the first time in 20 years.

 I stayed inside of my warm house like a cat. It was Sunday today. In this sense, we were lucky becasue we did not need to go to offices to work. We are waiting for spring.

The picture shows a scenary in a park near my house

 

2月15日(土) Feb. 15, 2014

 昨日はバレンタインデー。この10年間、毎年近所の娘さんからチョコレートケーキやチョコ菓子をいただいている。彼女の手作りだ。今では20歳過ぎの心優しい娘さんに成長し、そろそろ私のような老人を相手にしなくてもよいと思う。しかし彼女がいつかお嫁さんになり、バレンタインデーでチョコをいただけなくなると寂しくなるだろう。社でも女性社員からバレンタインチョコをいただいた。もちろん会社の女性はわたしだけでなく、社の老人男性数人に贈った。老人になるとはこういうことなのかと、変に悟ったしだいである。

 昨夜から今日にかけて、再び関東甲信越、東北、東海、近畿に大雪が降った。今年2度目。、当地では、9日よりも降雪量は多い。早春の足音が聞こえるまでにもう一度くらい雪に見舞われるかもしれない。

 Feb 14th is Valentine Day. I have been given by a young lady who lived near my home. She has been in touch with me for more than 10 years. She is a tender girl. She does not need to keep in touch with a old man like me, I think. However, I am sure to feel lonley if she gets married with a good gentleman. The heavy snowfall hit Kinki, Kanto-Koshinetsu and Tohoku regions again. The snowfall began in the afternoon yesterday. When I got off a station nearby my house, no taxis have been seen. I had no alternative but to walk. I walked on the snowy roads in the countryside for 20 minites. It was cold indeed. 

3月7日(金) March 7, 2014

昨日午後、市のトレーニングセンターに行き、1時間半にわたって汗を流した。柔軟体操に始まり、腹筋、筋力トレーニング、30分間の自転車のペダルこぎ、そして再び柔軟体操で終了した。スポーツトレーナーが始動してくれた。数十人いたが、ほとんどに人が70歳以上。筆者はまだ若い。好きな日の好きな時間に行って、トレーニングプログラムをこなして帰宅する。まるで昔の銭湯のようだった。体の柔軟性が失われており、苦行だった。80歳の男性に励まされ、どちらが年上か分からなかった。ちなみに、80歳の男性は、トレーニングセンターに15年間通っているそうだ。元気溌剌。10歳ぐらい若くみえた。週に1度行くことにした。無理をしなければ長続きするだろう。

4月16日(水) April 16, 2014


 良い季節になった。当地は桜が散り、青葉の季節。一年中で一番さわやかだ。65歳にしては充実した人生を送っている。感謝したい。週に2日出社し、残りの時間を市のトレーニングセンターで体を鍛え、本を読み、執筆活動にあてている。家内の手伝いする時間も現役に比べれば増えた。夕食後の皿洗いは日課になった。人生も晩年期。一日一日を大切にした。

 It is  a fine season in Japan now. Japan has the most wonderful season in every year. Spring in Japan is summer in England in temperature and weather.

It is dry and not humid as well as a mild temperature around 22 degrees celsius above zero.

  I have spent my latter part of my life. I am 65 years old. My life nowadays is good. I go to office twice a week, go to a training centre once a week, reading books and writing a book. When I was in a full work, I did not help my wife in a kichen. Now I wash dishes and sometimes seep floors.

 At the end of every month, My wife and I visit my mother in Hamamatsu City, about 250 kilometers west of Tokyo alone the Pacific coast. My mother is 92 years old.

(写真は自宅近くの桜並木  Cherry trees near my home)

 

 

2014年9月18日


  5カ月ぶりに書く。昨年は妹の死で、ドタバタしたが、ことしは原稿書きで忙しかった。過去形と言うより現在形のほうが正しい。11月には刊行される予定だ。第2巻は第1巻の続きだと申し上げたほうが正しい。第2巻では日本人、英国人、米国人の国民性を論じ、この国民性がいかなる作用をして日本人「絶対負ける」太平洋戦争の引き金を引いたのか。別の言い方をすれば、ルーズベルト大統領にうまく翻弄され、真珠湾に殺到したかを論じた。日本人は独立心のない、横並びの国民。これが大いに米英の戦術に翻弄され、戦争に突入した。日本人の心の、感情の機微と変移を見つめ、観察して書いた。

 現在、日本人の右派は日本人特有の感情論と観念論で社会に台頭してきている。観察眼のない人々だ。これが世界の人々を不安がらせている。さらに慰安婦問題や東京電力福島第1原発事故の「吉田調書」をめぐる朝日の誤報と謝罪が右派をいっそう勢いづかせている。なにか将来に暗雲が垂れ込めている、と考えるのは筆者だけなのだろうか。

 I have no time to write this blog for having writing the nexr book to be published next November. This book features Japanese, English, American national characters and how the japanese national characters exert impacts on the opening of the Pacific War.

 The war was fought by the United States and the British Empire on the one hand and Japan on the other. Japan had  no possibiity of winning  the war because the ratio of National  power of Japan and the United States was 1 to 20. Despite this fact, Japanese leaders and the people began waging war against the United States. One can say President Franklin Roosevelt forced Japanese military leaders to launch the war. Whatever it has been right, the ratio of 1 to 20 was a severe reality which Japan would have respected it. However, they rushed into the war out of their patience.

 The  nowadays  Japanese and the Pacific-war-day Japanese have shared the same national characters as we think it is natural. THe negative characters of the Japanese have reemerged following China's irrational and unjustice attack on the war-time atrocities of the Japanese military and the territorial claim of Senkaku Islands south of Japan.

 The propagantic ways of handling by the Chinese government, after all, have stepped up the strength  of the right-wing  groups and media.

 As American and Japanese governments and the people had not understood fully their respective national characters, the Chinese and Japanese and the people have not done so. This mishap has widended the  feeling gap between the two peoples.

 I discuss this in my book. The book is written in Japanese. If a foreign publisher considers the publication of my book in Engish, I am very pleased.

2014年12月7日(日)

市のトレーニングセンター

 筆者は66歳。体力の衰えを感じる。週に2-3日、社で働いているが、夕方になると疲れて眠たくなる。電車内では居眠りをしながら帰宅する。こんな状態なので、ことし3月から市のトレーニングセンターに通っている。通い始めた当初、週に1回と思っていたが、人生はままならない。月に2-3度行くのがやっとだ。それでもなんとか師走まで通い続けられた。トレーニングコーチは、数回で来なくなると思っていたようだ。ま、気張らずに通ったのがよかった。最初にガチガチに月に何回行く、と決めてしまうと、その計画がうまくいかなくなり、やめてしまう。

 のんびり来年も通うことにする。体力をできるだけ維持して、残りの人生を有意義に過ごしたい。来年夏には67歳。社はお引き取り願うと言っている。さて夏以降にどうするか。まだ元気なので何かしようと思う。

2015年1月12日

Happy New Year(2015年)


 「謹賀新年」というより「寒中お見舞い申し上げます」と言うほうが適切かもしれない。昨年の師走から正月明けまで忙しかった。きょうは、久しぶりにのんびりした一日だった。家内の親友の娘さんがご主人と一緒に来てくださった。新婚カップルの来訪だった。ご主人は新米記者。いろいろと苦労話を聞いた。それでも「仕事は楽しい」と言っていた。健康に気を付けて頑張ってほしい。

 今年はいよいよ完全リタイアーの年。人生は黄昏。そう思えば、それまでだが、まだ66歳。友人が現在の人々の年齢は昔の人の8掛けで計算可能だと話していた。まだまだ体力、知力とも旺盛。もうひと頑張りしたい。


 Happy New Year! perhaps, it is too late to sey so.I have been very busy since last December. Today is a national holiday in Japan.I have been relaxed. Two young poeple visited my house to see my wife hand me. They are a married couple. The husband is a newcomer working in a broadcasting house. He is a newsman. His wife speaks English fluently. We are very thankful to them for visiting my house to meet us. We wish them good and prosperous this year.

2015年7月27日

 猛暑継続。この栃木の暑さは半端ではない。今年2回目の書き込み。何かと雑用に追われた半年だった。懲りもしないで第2冊目「歴史の視力」をことし2月に出版した。出版社の話によれば、専門家や歴史愛好家の評判は良いようだが、一般読者の反応はいま一つだそうだ。難しいのだろうか。そういえば「読みにくい」「文章のつながりがよくない」などと私を落胆させるブログ「本が好き」を読んだ。同僚や友人に聞いたが、「問題はない」とのこと。友人の話では「多分、歴史の知識がなければ、読みずらいだろう」とのことだった。あらためて硬い本を一般の人々に理解してもらう難しさを感じた。第3巻は「歴史に埋もれた偉人」を発刊するが、これも一般の読者にはどうだろうか。不安だ。わたしは一般の読者に読んでもらい、将来の日本と、年々厳しさの増す東アジアについて考えてほしいと思ったのだが・・・。人生はうまくいかない。それが普通のことと分かっているのだが・・・。


 2015年9月14日 (Sept. 14 2015)

鬼怒川の反乱は日本の水害が新段階に移行してことを示す The River of Kinugawa indicates Japan’s river disaster moves to its new stage



 東日本を襲った今回の水害は日本がかつてないほどの大きな被害を将来受ける可能性を秘めている、と専門家が話していた。この話は、水害の被害程度が新段階に移行したことを示している。地球温暖化現象だろう。人類はひたすら滅亡の淵に向かって進んでいるが、ブレーキの効かない車に乗っていうため、指をくわえてただ見ているだけなのだろうか。未来が暗い。国同士が国益のために争っている時代ではない。そう感じる。

 Japan will be faced with as torrential rain and other naural disasters which nobody has never experienced and imagined. The torrential rains in Kanto and Tohoku regions may be casued by the warmth phenomena of the earth.The time is running out for the death of the earth and the extinvtion of menkind.  

 

2016年6月9日(June 3rd 2016)

 親友2人と会う.1人とは三十数年ぶりの再会

 

 友人二人と再会して1週間が過ぎた。70歳の声を聞くようになると、青年時代の友人が懐かしい。地方から医学会で上京した友人とは三十数年ぶりの再会。彼の奥様とは初めて会った。もう一人の友人とは時々会うが、会えば話に花が咲く。三十数年ぶりに会ったと言え、声は昔と同じ。お互いに身体は太り気味で、顔も老けた。

 ただ、昨日会ったような錯覚に襲われるのは不思議な現象だ。再び会言うこと約束し、新橋駅に急いだ。とにかく、互いに健康でありたい。そうすればまた会える。 

 

 I met two my good friends one of them for the first time in more than 30 years

  It has passed one week since I met two my bosom friends in the evening on June 3rd.

 When my age is approaching 70 years old, my young-aged friends are old sweet ones .I met a friend, a medical doctor who came up to Tokyo for a medical study session, for the first time in more than 30 years. The other has been met by me sometimes.

  Their voices and tones are the same ones as I heard them 30 years ago. However, we have been fatter than in the young ages. Our faces are old-shaped ones. It is very strange that we met as if we had met yesterday.

  We said good-by after promising our reunion and went to the JR Shinbashi Station in the central of Tokyo.

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